yukiです。ものすごーく文句言ってるから要注意(笑)
「テレビで楽しんだ記憶がほとんどない」わたしにとっては、テレビ大好きで、テレビドラマを見て一緒に育ったような人たちですら「テレビドラマだめだろ」と言いだすような現状ではもう、ほんとにドラマに対する信用度はゼロに近いです(笑)。だから今回もまったく信用していない。
まず最初に思ったのは「ぺらっぺらなドラマだなー」ということでした。最近はこういうの、普通なのかもしれないけども。見てて我慢大会になるわけではなかった分だけまだましかな。
「また、『企画倒れ』以前の『設定倒れ』をやらかすんじゃねーの?」
という危惧が抜けない。
「ヤクザがひょんなことから老人介護のヘルパーをやるの、おもしろくね?」
・・・飲み屋で思いついたことをそのままドラマにするな。
ていうか今気づいた。ずっと昔に、アーノルド・シュワルツネッガー扮する警察官がベビーシッターかなんかやる映画なかった?「キンダーガーデンコップ」だっけ?それの「逆」(何が逆なのかよくわからんが)程度の設定なんじゃない?言葉上での「設定」だけ。
あと、見て、改めてもうひとつ気づいたことがあった。わたし、なんとなーくこの設定が「面白い」と思えなくって、なんでだろ、って考えてたんだけど。
わたしが知る範囲でだけど、そもそも福祉の世界に生きてる人に「元ヤンキー」とかけっこういるよ。それはおそらく、もともと「社会的弱者」として育ってきて、道をはずれかけ、でも何かの折に「これじゃいけない」って思ったときに、そうは言っても「社会の上のほう」にのし上がっていくのは容易なことではなくって、受け入れる側としても常に人が足りない、自分というものを求めてくれる、そして自分が育ってきたのと同じ、あるいは形は違っても、同じ「社会的弱者」とともに生きている福祉の世界にふっと目が行って、そこで生きていく、ってのはそもそもあることだと思うの。
だからほんとは「若い極道が老人介護」って別に設定としてもおもしろくもなんともないよ。「ありそうありそう」くらいの話だよ。
てか、ポリシーだか想像力だかがちゃんとあって描けるなら面白いのかもしんないけど、あるいは「ありそうありそう」で作ってくれるならそれでも面白くなると思うんだけど、ただ思いつきみたいに「ヤクザと老人介護」って言葉上でちょっと面白そうな組み合わせをとりあえずやってみました、じゃ、やっぱ「ぺらっぺら」になるのは仕方ないと思うんだよなー。
クサナギくん扮する彦一だっけ?って人はちっとも任侠の人ではなかったし、任侠にあこがれて任侠を極めようと思ってるようにも見えなかったしー。
すごいかっこよかったけど、ビジュアルは確かにキレイだったけど、でも、「ぺらっぺら」にキレイだった気がする。初めてクサナギくんから、「あんた、映像使ってなにか勉強したでしょ」っていう感じを受けた。ちょっとがっかりした。
なんのためにあなたは逮捕までされなきゃいけなかったのか。なんであんなことになったのか。
そのことはわたしにとって、「よくやった」くらいのことだったのに、あなたはその結果、いろんなことを感じただろうし、いろんなものをを得たであろうに。それはとってもよかったね、と思ったんだけど、でもさぁ。
あんまり「失わなかった」感じがするね。オトナの事情が、あなたが失っていいはずのものを、失わせてくれなかった。失って後悔してそれを取り返すためにまた生きる。一番肝心な「そこ」を甘やかされちゃった気がする。
くどいけど、それは「オトナの事情」が理由で。
「どうしてもはずせない、君が必要な仕事があった」から。
でもそれは、ほんとに「君が必要」だったのかなぁ。少なくとも、「元ヤンキー」が福祉の世界に転じたときに感じる「君が必要」って意味とちょっと違う気がする。でも、たぶん誰でも欲しいのは、その、「元ヤンキー」が感じる「君が必要」ってとこじゃないのかしら、と思ったりして。
それじゃあんなにひどい扱いをされて、あんなにつらい1日を過ごした意味ないじゃん。
なんかさー、「葛藤」がないんだよー。
今のままじゃ、背中の桜が泣くと思うけどなー。
・・・でもあのみょーな半そでのお洋服を見るに、ドラマの終盤で、今までのエピソードで対して納得もできなかったのに、堂々と背中の桜を出して「僕老人介護ヘルパーとしてやっていきます」って言いそうでそれもまたやだなー(笑)。